BOOKS HIRO 通信 第200号
(1)みなさまこんにちは
『開高健の本棚』(河出書房新社 2021年刊)には、開高健の所蔵本の背表紙のならび(つまりは書棚)の写真が多数収録されている。この本を手に取ったのは、もちろんその写真を見てうらやましさにため息をつくため。できれば、本のリストも作りたい。ところが、「心はさびしき狩人」というエッセイも収録されており、その書き出しが気に入った。
姿勢だけからいうと寝ころんで読むのがいちばん楽だし、自由である。寝ころばずに読むのはすこし苦しくて無理がある。(中略)だから、新しい本を手にすると、私はそれをもって寝ころびにゆく
今の私の読書法にそっくり。フルタイムの仕事を引退してからはまさにほとんどの本を寝ころんで読んでいる。いわゆる紙の書籍にかぎらず、Kindle本や、国会図書館デジタルコレクションの本もiPadを使って、寝ながら読む。腰もいたまず、まさに極楽読書だ。
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松田道雄の『私の読書法 (松田道雄の本 ; 第15巻)』を寝ながら読むと、本の題名とおなじ「私の読書法」というエッセイがあり、アームチェアの肘おきの上に板をのせそのまた上に見台をおき本を乗せて読むと身体が楽、という一節がある。開高健と同工異曲。
このエッセイの読むべきところはここだけでなく、以下の六項目の「心得」である。
第一に、たくさんの本を読もうと思うなら、愛書家であってはならない。(筆者注:廉価本ですませる。書き込みもどんどんする。)
第二に本をたくさん読むためには、場所柄をわきまえないことである。その場所に定められている仕事よりも、本を読んだ方が良いと思う時は、場所柄をわきまえることなく本を読むことである。(筆者注:内職の奨励)
第三に時間に対して吝嗇であると言うことも、読書の性癖を維持するのに必要である。そのためには、時間的に区切りのつかないような環境から遠ざかることである。宴会などと言うものに出ないで済むように、他人と従属関係を結ばぬことである。(筆者注:麻雀、将棋はもってのほか)
第四に、読書に対する生理的条件を尊重することである。(筆者注:アームチェアでゆったりと読む。寝ころんでもいいのでは?)
第五に財布が許す限り本を買うことである。これもまた本を多く読むための重大な条件である。本を買ってしまうと、酒を飲んだり、旅行したりする余裕がなくなってしまうから、やむを得ず本を読むということになる。
第六には、何らかの義務を設けて、嫌でも本を読まねばならないようにすることも、読書を続けるための一つの手段である。
最後が振るっている。
もう一つ付け加えて言うと、最近の本の読み方は内容の1つを覚えていて、それをどこかに引用しようなどと言うことが少なくなった。内容は忘れてしまっても、1つの雰囲気のようなものとして本全体を捉えようと言うやり方になってきた。つたないなりにもものを考えるのは、自分の頭によらねばならないということに思い至ったのか、忘れっぽくなってしまったためなのか、よくわからない。おそらく両方ともあるのだろう。
これこそ、本を読むうえでの極意。老人力のなせる技だろう。
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ここで、PASSAGE棚主のおひとり、管啓次郎先生の『本は読めないものだから心配するな』の序文を思い出した。連想で本を読んでいくのは読書の醍醐味でもある。
本に「冊」と言う単位は無い。とりあえず、これを読書の原則の第一条とする。本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな。ぼくらが読みうるものはテクストだけであり、テクストとは一定の流れであり、流れからは泡が現れては消え、さまざまな夾雑物が沈んでいく。本を読んで忘れるのはあたりまえなのだ。(中略)不眠と焦燥に苦しむきみが本を読めないこと読んでも何も残らないことを嘆くはめになったら、この言葉を思い出してくれ。本は読めないものだから心配するな。
ここまで来て、私はスッキリした。これからは、自分の思うがままに本を読み散らして生きていく。何冊読んだとか、新刊書がなかなか買えないとか細かいことを考えてもしかたない。寝ころんで近くの本を手に取り続けるのみ。
この原稿は、寝転びながら、iPadに音声入力をして書いた。必要以上に漢字に変換しすぎるので注意が必要だが、ともかく、腰はいたまない。
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また来週。
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