BOOKS HIRO 通信 第199号
(1)みなさまこんにちは
『そこに水鳥がいなかった日のこと』(小津夜景 素粒社刊)を読んだ。同じ著者の『カモメの日の読書』や『いつかたこぶねになる日』と同様に、日々の暮らしを語るエッセイに漢詩の紹介がまじる、記憶と連想の素晴らしさを伝える本。
この本で紹介された漢詩人のひとり、大窪詩仏は茨城県大子町(私の父の郷里のすぐそば)の出身。重々しい詩風ではない軽やかな詩を書く人だったらしい。この本で引用される他の詩も親しみやすいものが多い。大窪という苗字にも覚えがあるので、もしかすると遠い遠い先祖かも知れないと想像をたくましくする。
20名以上の詩人のことについては、なるほどなるほどと感嘆しながら読んでいくのだが、時折語られる著者自身の読書に関する意見や感慨がとても趣深く感じられる。
たとえば、年配者の読書の好みを定規に例えた以下の記述。
問題は、新しい定規の方が使いやすいかもと言う発想がいつの間にか消えてしまっていることだ。もちろん、その人たちは年齢とともに本を読まなくなったわけではない。むしろ読んでいる。新しい本もきちんと買い、ぱらぱらめくり、感想も言う。けれど、その読書は未知の何かに出会うためのものというより、自分の現在地を微調整するためのものになっている。そんなだから、話がややこしくなってくると、すぐになじみのある古い定規を持ち出す。(中略)本を読む事は、ものを測ることではない。
自分のことを言われている気がしてしまう。反省しなくては。
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著者は原稿執筆時の自分の読書についてこう述べる。
そんなわけで、母校の図書館に通っている。ところが呆れるほど原稿が進まない。何故かと言えばそこに資料があるからだ。資料がある、と言う事は、どこまでも書き直せてしまうということなのだ。読む。書く。また読む。そのたびに別の疑問が生まれ、また別の棚に手を伸ばす。知識と言うのは地下茎のように広がっているから、1つに触れれば全体がどっとざわつく。連鎖が始まり、気がつけば、当初の目的を見失っている。机の上には、いつのまにか本が積み上がっていた。
誰でもこのようなことをしているのだと、気楽になる。
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最後に近く。流謫の地の菅原道真の友と見立てた燕に託した以下の文章は、そのまま詩になっている。
下を見る。北の蔀がほのかに白んでいる。先生はきっとまだ眠っている。ふいに吾輩の翼から墨の香りが立つ。飛べぬものにも、書くと言う風がある。風があれば、どこへでも行ける。
著者や詩人たちを見習って、読むこと、書くこと、生きることを余裕を持って渾然と行いたい。とりあえず短めの漢詩を手書きで書き写してみようか。
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また来週。
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