BOOKS HIRO 通信 第151号

高田博厚著『分水嶺』を読みながら書棚間コラボレーションを熟成させる「緩慢な時間」を思う
hiro 2025.06.07
誰でも

(1)みなさまこんにちは

物置となっていた一室を整理しました。40年以上前に亡くなった義父の書棚の蔵書が詰まった段ボール箱を開けたのは、久しぶりでした。埃をかぶった本の山から、ふと目についたのが奥平英雄著『晩年の高村光太郎』(昭和51年刊)です。手に取って読むと、晩年の高村の姿が、静かに浮かび上がってくるようで、深い余韻を残しました。病を押して十和田湖の『湖畔の乙女』像を制作する姿も印象に残ります。

その余韻に導かれるように、もう一冊、義父の本の中で強く心を惹かれる本を読みました。それが高田博厚著『分水嶺』(岩波書店 昭和50年刊)です。読み進めるうちに、単なる随筆や回想録を超えた、静謐で奥深い「思想の彫刻」に触れているような感覚に包まれました。著者の高田博厚は彫刻家であり新聞記者でもありました。若い頃には高村光太郎と親交があり、のちにフランスに渡ってからは内外の多くの人と、そして森有正とも思想的な交流を重ねていました。

中でも印象に残ったのは、森有正について記した一節です。高田は、森がフランス文化のなかに深く根を下ろそうとしている姿を見守りながら、「文化」と「自我」を照応させるのではなく、「自我」の中で文化をふるいにかけるような思想的苦闘が必要だと述べています。その間に、「緩慢な時間」の意味が実感されるはずだといいます。

日本では、私が彼を引き止めたように噂されたらしいが、私は人に影響を与えようとする性質ではなく、森の師の渡辺一夫はそれをよく了解していた。森も、私が長い年月をかけて、徐々に感得した「思想圏」に踏み込もうとしているのを見た。フランスに来ないで、来た人以上にもその文化に馴染んでいる林達夫や山内義雄などを私もよく承知していたが、その土壌の中に生きる事は、それと「自我」と照応させると言うより、「自我」の中に淘汰しなければならぬものを見出す、思想的苦労、矛盾の闘いを経なければならないだろう。これは「理解」以上の課題であり、西洋とか東洋とかの比較交渉の問題ではない。そして、やがては「緩慢な時間」の意味が身にしみてくるだろう。経験がほとんど生理作用にまでなるときに、「土壌」が「自我」に同化するだろう。

この一節を読んだとき、私はふと、目の前に広がる義父の蔵書を思いました。私自身の関心と、義父が生前集めていた書籍の内容に、思いがけない重なりを感じたからです。40年前は見えなかったものが、今になってようやく見えてきたような感覚がありました。まさにこれは、「緩慢な時間」がもたらしたものです。

さらに、国立国会図書館のデジタルコレクションで高田博厚の彫刻作品を調べてみたところ、ロマン・ロランやガンジーの胸像などが掲載されていました。どの作品も、人物の内面に迫るような、深いまなざしを感じさせます。高田は、自らの作品に容易に「完成」を与えなかったようです。対象を深く理解し尽くすまで、時間をかけて作品と向き合っていたのでしょう。そうした姿勢は、文化や思想をじっくりと「自我」に溶かし込もうとする彼の哲学とも重なって見えました。

(* 高田博厚 著 ほか『高田博厚作品』,求龍堂,1978.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12423584 (参照 2025-06-06) これを閲覧するには利用者登録が必要です。)

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義父の書棚と出会い直すことは、過去との静かな対話であり、同時に自分自身の思考の土壌を耕す時間でもありました。こうした熟成は、私的な空間に限ったことではありません。たとえば、PASSAGEに集うさまざまな書棚のあいだにも、書物同士の「コラボレーション」が起こる可能性があります。今はまだ見えない関係性が、十年、二十年と時を重ねていく中で、深まっていき新たな文化が芽を出し、花開くかもしれません。

知とは、ただ速く広く集めるだけのものではありません。静かに沈殿し、時間の重さを吸い込んで変質していくものです。高田博厚の言葉を借りるなら、それは「理解」ではなく、「経験が生理作用にまでなる」ときにようやく身にしみるものなのです。

義父の書棚と向き合いながら、高田の書に導かれ、「緩慢な時間」の豊かさについて、あらためて考えさせられました。思考という彫刻を、私もいま、自分の中で少しずつ掘り起こしているように感じています。

(2)現在の私の棚主ページです

SOLIDA

RIVE GAUCHE

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また来週。

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